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^ 『聖武親征録』「上遣使哈柳答児・抄児寒、二人往汪可汗所、假為上弟哈撒児語謂之曰『瞻望我兄遙遙勿及、逐揵沙徑、不知所従。近聞我妻子在王所、我今蔽木枕塊、藉壌仰星而臥、故雖有諸王苟従之、吾終帰王父也』。汪可汗因遣使亦禿児干、以煮漆器盛血与之盟。哈柳答児、抄児寒二使将亦禿児干来、上不与語、即送於哈撒
Jöči、現代モンゴル語:Зүчи、1177年/1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。 漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān と綴られる。
タイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男のジョチの末裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。 ジョチ・ウルスは歴史家によって金帳汗国、キプチャク=ハン国といったさまざまな呼称がなされている。 『集史』「ジョチ・ハン紀」ではジョチ家の政権を指して「ジョチのウルス(ulūs-i
キト族に略奪され、チンギスがそれを奪回した後に誕生した故につけられた名である(ただし集史ではボルテが略奪前に懐妊していたとされている)。このため、種違いであるとして周囲から疑われたが、軍人としてはチンギスにも劣らぬ名将で、モンゴル統一から華北進出、大西征で多くの軍功を立てた。しかし次弟のチャガタイ
しかし、キヤト氏族での主導権を巡って兄チンギスと対立することもあったようで、『元朝秘史』によると1206年のチンギス・カンの第2次即位の後、シャーマン(巫者)ココチュ・テプテングリらコンゴタン氏族の子弟によるクーデター計画に加担したことを咎められ、国政の中枢から遠ざけられたと伝わる。一説にはチンギス・カ
躡之、会其節度斜捻阿不棄衛入汴、撒吉思卜華遂拠而有之。十二月、義宗自黄陵岡済河、謀復衛。撒吉思卜華与其将白撒戦白公廟五日夜、俘斬万計、余衆尽潰。義宗竄帰徳。撒吉思卜華追躡其後、薄北門而軍。左右皆水、其舟師日至。癸巳四月、其将官奴夜来斫営、腹背受敵、撒吉思卜華与一軍皆没。嗣国王塔思承制、以其弟明安答
1360年1月)のジョチ・ウルスのハン。先代ハンのベルディ・ベクを殺害して即位したものの、ジョチ・ウルス全体を統治する力を失い、ジョチ・ウルスに「大紛乱(эамятня беликая)」と呼ばれる混乱時代をもたらしたことで知られる。 クルナの出自は明らかではないが、一説にはジャニベク・ハンの息子で
^ 劉2012,207頁 ^ 村岡1999,25-26頁 ^ 『元史』巻21成宗本紀4,[大徳七年秋七月]丁丑……都哇・察八而・滅里鉄木而等遣使請息兵。……戊寅、賜諸王奴倫・伯顔・也不干等鈔九万錠」 ^ 村岡1999,27頁 ^ 赤坂2005,148-149頁 ^ 赤坂2005,149-151頁 ^