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000石を賜る。慶長12年(1607年)、照直が嗣子がないまま病死した。そのため、義直は再び家督に復し、嗣子となるべき血族を探し養うよう幕府より恩命を受け、義直の娘と旗本の杉浦忠次郎直為の間に生まれた長子・吉十郎を養子とし直氏と名付けた。ただし、義直の養老料、照直の加恩分は収公された。
梅本政幸『丹後守護一色氏代々控』あまのはしだて出版、2011年。http://itech38.co.jp/shigeyuki-tango/tangosyugo-umemoto.pdf。 ^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」『戦国史研究』第82号、戦国史研究会、2021年、1-16頁。 ^ 日野和煦『西條誌』 巻之十二
大坂の陣があるのを聞きつけ、慶長19年10月1日(1614年11月2日)に家来の日置権之丞及び白杉隼人を通して、江戸幕府に都合47人、総人数534人の『家来連判帳』を提出して徳川軍に参加しようとした。幕府側の安藤治右衛門から鑓二筋をもらったものの、出陣前に大坂城が落城して参加できなかった。その後、徳川家康が
義幸の父とされる一色義有は幕府の御供衆にも列する一色氏一門で、また丹後一色家の下、郡代も務めていた。しかし、義有および次代・義清が没し、一色宗家(義貫流)の血筋が絶えると、一色教親の子(末裔)である義幸が一色宗家を継承し、幕府より丹後守護職に任命された(若狭武田氏より丹後守護を奪還)という。また義幸は若狭武田氏の勢力を追い、加佐
和へ出陣させた(大和永享の乱)。しかし、永享の乱で幕府に対して挙兵した足利持氏の残党(一色時家等)を匿った罪を問われ、義教から追討を受け、武田信栄に腹背を攻められて敗北。同年5月15日、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害して果てた。享年41。翌日には義教から一色氏の家督継承を命じられた甥(弟・持信の
宮津市、P687。『戦国大名系譜人名事典』と『戦国人名事典』では生没年は不詳とされている。山本、P265、阿部、P104。 ^ a b 梅本政幸『丹後守護一色氏代々控[1]』 ^ a b c 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年) 山本大・小和田哲男編『戦国大名系譜人名事典
を名乗っていることから、吉良氏一族と見られており、「左馬助」の名乗りから吉良氏家(吉良貞家弟)、一色有義の二人が候補としてあげられる。 守護としての活動がみられる2ヶ国は、貞家ゆかりの地で(前任の因幡守護が貞家であり、周防に所領を有していた)兄の後を継いで吉良氏家がこの地を治めたと考えてもおかしく
った杭瀬川の戦いでは、一氏の弟・一栄(一氏が合戦前7月に死去したため陣代)に従い島清興軍と衝突。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、これに猛撃される。乱戦の中、金の三幣の指物をつけて、騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多氏家臣の浅賀三左衛門(左馬助)に討ち取られた。後から追いついた