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寛延3年(1750年)に弟子の岡田春達を跡目とする。明和元年(1764年)に本因坊察元とともに八段準名人に昇段。続いて察元の碁所願いのために争碁を打つが、敗れる。明和8年(1771年)に隠居し、跡目春達に家督を譲る。翌安永元年(1772年)12月没。 享保9年(1724年)の永野快山(先)との対局は、92手まで三コウの
いた。この翌年には道知先相先の七番を打ち、道知勝ち越しにより七段に進め、後見を解く。宝永5年(1708年)、名人九段に進むが、碁所には就かなかった。 宝永7年(1710年)、琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子が因碩の斡旋により道知と三子局を打って中押勝ちするが、屋良に免状発行する必要が生じ、そのため
督を継ぎ、十一世井上因碩となり、また六段昇段。この文政7、8年に「的然として昇達」と自身で述べ、8年の仙知に先番10目勝ちの碁に対し関山仙太夫は「黒打方極妙」と評している。 天保の内訌においては、丈和ともう一方の主役だった。丈和は因碩の11歳年長であり、対戦は因碩15歳の時の先二の手合から始まり先相
碩が変事により退隠し、後継者を予定されていた服部正徹が遊歴中であったことから、錦四郎の旧主君である老中久世広周により急遽井上家を継ぐこととなり、十三世井上因碩となる。同年に四段で御城碁にも初出仕し、本因坊秀和に先番2目負。 安政6年(1859年)に本因坊秀和が名人碁所就位を出願するが、因碩
すぐれたはかりごと。
〔「井」は当て字〕
1971年(昭和46年)に政界を引退した後に、皇學館大学と学校法人皇學館の理事長に就任した。1978年(昭和53年)に、自叙伝「藻汐草―井野碩哉自叙伝」を著した。1980年(昭和55年)5月19日、腎不全のため死去した。叙正三位。墓所は杉並区築地本願寺和田堀廟所。 昭和天皇の即位の礼(即位式典)に際しては、大礼使典儀官
〔古くは「うんしょう」〕