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て新羅に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は対馬で病死、副使の大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、大判官・壬生宇太麻呂とともに麻呂が入京し、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた。
進した。称徳朝では、御前騎兵将軍・民部卿・勅旨大輔・侍従などを歴任する一方、天平神護2年(766年)正四位上、神護景雲2年(768年)従三位と引き続き順調に昇進した。 神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、左大臣・藤原永手らと共に白壁王を皇嗣に擁立(光仁天皇)する。翌宝亀2年(771年)
〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
天皇が既に崩御して後継ぎがおらず、早急に決めないと乱が発生する恐れがある。今どの王を皇嗣とすべきだろうか。 天皇が病臥していた際に田村皇子に対して、天下を治めることは大任である。たやすく言うべきではない。慎重にこれを察して、しっかりやるように、との詔があった。 次に、山背大兄王に対しては、独りで喧しく
された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。 桓武天皇が即位した天応元年(781年)従五位下に叙爵し、翌天応2年(78
字8年(764年)正月に山陽道諸国で複数の国守の入れ替えが行われ、蔵下麻呂は備前守として地方官に転じた。これは、前年度より山陽道で旱魃が続いており、旱天に伴う食料不足に対応するため、新しい地方官人事によって事態の打開を図ろうとした藤原仲麻呂の意図によるものと考えられる。なお、同年の藤原仲麻呂の乱に直
子ともども討ち取られて、妃や側室は自殺した。 このような事件の首謀者の一員であったにもかかわらず、白雉5年2月(654年)に遣唐押使を高向史玄理、大使河辺臣麻呂、副使薬師恵日を中心とする遣唐使一行の中に、「判官」として大乙上(「或本」では小山下)の「書直麻呂」の名前がある。翌斉明天皇元年8月(65