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99便として函館第4岸壁到着し貨車卸し後、5時05分発の92便として出航準備中の5時10分空襲警報と疎開命令を受け、貨車卸し空船とし上磯沖の分散疎開錨地へ向かうため5時50分同岸壁を離岸。6時05分函館港防波堤内でアメリカ軍機の爆撃を左舷船尾と左舷後部に受け、機械室、車軸室への浸水はなはだしく、右舷
8mから、第二青函丸では船首楼と船橋楼間では3.3mに、船橋楼と船尾楼間では2.1mに嵩上げした。 しかし、車両甲板を覆っているのは、この船首楼以外では、第一青函丸同様、船体中央部の船橋楼と後部操舵室のある船尾楼だけで、依然、車両甲板の大部分に天井はなかった。このため、
舷側の遊歩廊屋根(遊歩甲板)から立ちあがった。ちょうどこの頃、浦賀船渠でも自社開発の蒸気タービン製造を開始し、その初号機が第三青函丸に搭載された。定格出力2,000馬力の高低圧タービンの2筒式、2段減速歯車付衝動タービンで、これを2台搭載して、4時間30分運航可能な航海速力15.5ノットを確保した。
隔壁から普通船員居住区(第1船艙)の船体中心線上に鉄橋のようなトラスを1列設置し、その後ろに続く第2船艙、ボイラー室、機械室、車軸室の各水密区画ではトラスを2列に、その後ろ、倉庫区画、船尾深水タンク区画では再び1列設置し、船尾タンク前側隔壁
第二大函丸(だい2たいかんまる)は、東日本フェリーが運航していたフェリー。 1965年7月23日、大函丸 (初代)に続いて大間~函館航路に就航した。 1968年、戦車搭載性能調査を実施、陸上自衛隊のM4中戦車を搭載した。 1971年に売船され、東日本海フェリーが購入、船首ランプを閉鎖して船首を取り付
立待岬沖 - 北海道新聞1971年12月8日夕刊7面 ^ 引き上げ作業開始 昨年12月沈んだ大函丸-北海道新聞1972年6月2日夕刊 ^ 漁業補償が合意見舞い金八百七十三万円 大函丸沈没-北海道道新聞1972年5月31日朝刊 「新造船写真集(No.191)」『船の科学』第17巻第9号、船舶技術協会、196
※一※ (名)