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1873年(明治6年) 1月、前年9月18日の官布告に対し、大石寺一本寺独立願を教部省に提出。 6月、申状を記し、教部省に自門の教義を建白す。 7月、教部省に大石寺一本寺独立願を提出。 12月12日、第55世日布へ法を付嘱した。 1880年(明治13年)6月2日、51歳で死去した。
1687年(貞享4年)10月17日、磐城黒須野に誕生。 1705年(宝永2年)磐城阿本因坊日完を師として出家得度。 1707年(宝永5年)上総細草檀林に入林。 1717年(享保2年)9月12日、磐城黒須野妙法寺15代磐城阿本因坊日完〔日因の師〕寂。 1724年(享保9年)3月13日、父智泉院法久日遠卒。
寛正2年(1461年)3月22日、本尊を書写し下野薗部日安に授与す。 寛正3年(1462年)1月11日、南条日住、日有上人御物語聴聞抄3巻の稿を始む。 寛正4年(1463年)6月2日、本尊を書写し下野金井伊勢阿日量に授与す。 寛正6年(1465年)2月、大石寺御宝蔵を小校倉造りに改む。3月、大石寺客殿を創建す。
1706年(宝永3年)5月26日、父浄光院浄源卒。 1730年(享保15年)12月14日、母聞法院妙行卒。 1733年(享保18年)7月16日、秋元抄記を著す。 1736年(元文元年)春 29世日東より法の付嘱を受け、30世日忠として登座。9月7日、三宝之事を著す。 1740年(元文5年)3月8日、甲斐杉山有明寺板本尊造立。
、大阪の中弥兵衛という人と牧野梅太郎という人の2人に付き添われて、興津の日正上人のところへ来られました。(中略)33人は、興津に大きな宿屋が当時ありまして、何というのか覚えていませんが、その宿屋へ行って泊っておって、夜中の12時に再び来まして、それで今度は日柱上人だけが、蚊帳に入ってゆっくりお話を
日相(にっそう、1759年 - 1805年12月3日)は、大石寺第43世法主。 1759年(宝暦9年)、陸奥国宮城郡南宮に誕生。父賀川権八。 1770年(明和7年)、日穏の室に入る。12歳。 1772年(安永元年)、細草に入檀す。 1788年(天明8年)9月23日、父浄性坊日顕寂。
日、37世日琫より法の付嘱を受け、39世日純として登座。 1786年(天明6年)秋、10代将軍徳川家治他界のため江戸に下向し納経拝礼。日純退隠し日琫再往。 1787年(天明7年)2月、寿命坊に住し下之坊を修復す。9月23日、父了遠日松卒。 1788年(天明8年)春、富士[要曖昧さ回避]下之坊に移る。
正安元年(1299年)、16歳で日目を師範として出家。日興にも仕えた。日目と同様、奥州でも布教した。 正和元年(1312年)8月27日、新田頼綱日善卒(日道父)(陸前本源寺過・墓銘) 11月11日、頼道・行道・行時・日道の四人連署して新田頼綱遺領の配分を定む。 嘉暦2年(1327年)11月10日、日目、土地(陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条)譲状を日道に与う。