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御城碁での算知との対局の折に、松平肥後守(保科正之)が観戦して、形勢を見て何気なしに「本因坊此碁負と見ゆ」と発言したのを算悦が聞きとがめ、自分が命を賭けて碁に向かうのは武士が戦場に臨むのと同じであると述べて対局をやめようとしたため、肥後守は算悦に謝罪して対局を続けさせた。この算悦の態度が、碁家の気節として賞賛されて語り継がれた。 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社
野忠左衛門(井上節山因碩と同名だが別人)の子葛野秀悦として、養子として届けられたが、実質的には本因坊家で初めての実子相続となった。この年は御城碁は下打ちのみにとどまり中止となったため、出仕はせずに終わる。 1869年(明治2年)に中川亀三郎らによる六人会発足に参加、この時には既に六段に進んでいる。
本因坊(ほんいんぼう) 江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→後述の「本因坊家」を参照)。 昭和になって創設された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→後述の「本因坊戦」を参照)。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた(とされる)日海
碁は稀であったと言われている。また道知が他三家に名人碁所就位を望んだ際には、御城碁にて「合議的作碁及び譲歩等の交渉に応ぜず、道知一人は実際力量の有らん限り対局すべし」と迫ったともされている。特に名人推薦が決まって御止碁となる前の1720年の最後の御城碁の棋譜は、146手目までが1697年の本因坊道
算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上、2年後の1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙する。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから寺社奉行より碁所を命ぜられた。碁所
碁界に認められていたことを示している。試しに道策と互先で打ってみたところ、互いに1目勝の打ち分けとなった。 師の道策と同じく、残された棋譜の中には黒番での負けはない。13歳で六段、19歳にして棋聖道策と打ち分けたということから、道的こそ史上最強の棋士ではないかと言われることもある。わずか21歳で夭
向四子7目負 酒井石見守 1771年(明和8年) 向二子中押負 安井春哲仙角 1773年(安永2年) 白番中押勝 井上春達因碩 1774年(安永3年) 向二子6目負 本因坊烈元 1776年(安永5年) 向二子中押負 井上因達 1777年(安永6年) 向二子中押負 坂口仙徳 1778年(安永7年) 向六子4目負
1778年(安永7年) 先番中押勝 井上春達因碩 同年 先番17目勝 坂口仙徳 1779年(安永8年) 白番中押負 井上因達 1780年(安永9年) 白番3目勝 坂口仙徳 同年 白番3目負 林祐元門入 1781年(天明元年) 先番4目勝 坂口仙徳 1782年(天明2年) 白番1目勝 井上因達 同年 向二子中押負 安井仙角仙知