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『豊後国図田帳』国文学研究資料館『諸国風土記及図田帳』(しょこくふどきおよびずでんちょう)、大和文華館(奈良県)所蔵、1285年。 唐橋君山(1803年)『豊後国志:附・箋釈豊後風土記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(二豊文献刊行会版、1931年写本) 『訓読 豊後
9年)、松浦武四郎が国後郡域にも訪れ、往路はトマリ(泊村泊)、ヲタトム(米戸賀村小田富)、シベトロ(大滝村シベトロ)、復路はヲン子ベツ(留夜別村遠音別)、フルカマフ(東沸村古釜布)、トマリ(泊村泊)に宿泊した。安政2年再び天領となり仙台藩が泊に出張陣屋を築き警固をおこなった。同6年の6藩分領以降、
豊文献刊行会から出版され、1975年(昭和50年)にはこの校訂版の復刻版が附図を付録として文献出版から出版された。 現在では、中川家本を底本とした訓み下し版:太田由佳訳、松田清注『訓読豊後国志』竹田市企画・編集、思文閣出版発行、2018年5月、ISBN 978-4-7842-1934-6 が出版されている。
青山村、木立村(それぞれ単独村制) 西中浦村 ← 有明浦、沖松浦、地松浦、吹浦 東中浦村 ← 中越浦、羽出浦、梶寄浦、丹賀浦、大島 米水津村 ← 色利浦、浦代浦、小浦、竹野浦、宮野浦 上入津村 ← 楠本浦、畑野浦 下入津村 ← 西野浦、竹野浦河内 蒲江村 ← 蒲江浦、猪串浦 名護屋村 ← 葛原浦、野々河内浦、波当津浦、森崎浦、丸市尾浦
枝郷は必要に応じて随時再編されており、その名称・範囲等についても時期によって変動が見られるが、享和3年(1803年)に書かれた「郷村仮名附帳」により、概容を知ることができる。「旧高旧領取調帳」では、こうした枝郷やさらに下位の小字のいくつかを村扱にして村高を割り付けているため、のちの本郡域なる村数が22
間・4間×3間であったという。宝暦年間(1751年 - 1763年)に描かれた『宝暦御城真景図』では、初重西面に格子窓を持った千鳥破風のような破風1つ、南面に3つの格子窓、3重目に華頭窓と外廻り縁高欄を付けた層塔型に見える背高な三階櫓が描かれ、北側に2重櫓まで続く多門櫓が描かれ、東側に続櫓と御金倉まで続く多門櫓が描かれている。
と復原される。この中に中門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南北に並び、金堂の南西に七重塔が位置する大官大寺形式の伽藍を有していた。 現在、観音堂がある場所に塔基壇が、薬師堂がある場所に金堂跡が検出されている。塔は七重塔で、遺構から復元すると基壇の1辺が18メートル、建物は初層の1辺が11メートル、
195年(興平2年)、武威太守の張雅が張掖居延属国に代えて西海郡を置くよう奏請した。建安年間、張掖居延属国は西海郡と改められた。 521年(正光2年)、北魏は柔然の婆羅門を西海郡に置き、部落を統率させ、離散した人々を集めさせた。。 ^ a b 『後漢書』郡国志五 ^