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桐山部屋に移籍していた佐野山は安政6年(1859年)1月より二枚鑑札で襲名。引退後幕内音羽山市平を育てた。明治33年(1900年)9月の死去前に谷ノ川安藏が入幕を果たしたが、死去後桐山部屋へ移籍した。 その後高砂部屋の大関朝汐太郎が襲名し、高砂部屋から連れてきた幕内朝嵐(後の大関2代朝汐太
式秀部屋(しきひでべや)は、日本相撲協会所属で出羽海一門(9代までは時津風一門)の相撲部屋。 1988年1月場所限りで現役を引退して時津風部屋の部屋付き親方となっていた年寄・13代錣山(元小結・大潮)は、1989年9月に年寄・式守秀五郎の年寄名跡を正式に取得して9代式守秀
このため、玉ノ井部屋所属の力士全員と師匠の玉ノ井は9月場所を全休することとなり、指定期間の外出禁止となった。裏方(行司、呼び出し、床山、世話人)については部屋に全く行っていなかったため、感染症の専門家が出場には問題ないと判断したという。また休場する力士たちの成績について芝田山広報部長は「それは審判部が場
を襲名し、四股名も勝ノ浦 与一右エ門と改め部屋を再興した。しかし、関取を育てることはかなわず部屋を閉じた。 錦戸部屋の元十両御舟潟春吉は明治31年(1898年)5月場所限りで引退し、6代勝ノ浦を襲名。幕内滝ノ音啓五郎を育て
1843年に雷部屋所属の幕内御所ノ浦平太夫が二枚鑑札で5代関ノ戸を襲名。1846年に引退し、年寄専務となってから小結荒熊力之助、大関猪王山森右エ門を育てるが、1856年12月に死去し部屋は閉じられた。 1881年に伊勢ノ海部屋所属の小結鯱ノ海梅吉が二枚鑑札で6代関ノ戸を襲名。部屋を興したが関取を出すことはなかった。
楯山部屋(たてやまべや)は、かつて存在した相撲部屋。 3代仮名頭次平が天保年間に幕内三楯山藤太夫を育てた。 5代大槙幸治は大関若嶌久三郎を育てるが途中で死去。若嶌は明治15年(1882年)6月より二枚鑑札で部屋を継承した。引退後に楯甲久四郎の入幕が決まった直後の明治24年(1891年)1月に死去。楯甲らは粂川部屋へ移籍した。
襲名して1940年(昭和15年)に高砂部屋から分家独立して大山部屋を創設した。1945年(昭和20年)の東京大空襲では、部屋、妻、長女、新弟子をいっぺんに亡くしてしまった。その後、10代大山は1955年(昭和30年)に直弟子・松登を大関に昇進させ、ついに1961年(昭和36年)12月に念願の土俵付
を、中川部屋からの三熊山を幕内力士に育て上げた。しかし、新十両入りを決めた信濃川が徴兵先から帰還しないうちに、1945年(昭和20年)に5代鏡山が身罷ると鏡山部屋は閉鎖され、所属力士は伊勢ヶ濱部屋(旧・伊勢ヶ濱部屋)へ移籍した。信濃川も戦後に帰還してからは伊勢ヶ濱部屋に所属した。