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竹本義太夫と改名。いっぽう天和3年(1683年)には、近松門左衛門が加賀掾のために『世継曽我』を書いたが、翌年の貞享元年、義太夫は大坂道頓堀に竹本座を開場して座本(興行責任者)となり、その旗揚げとしてこの『世継曽我』を語り評判をとる。近松が竹本義太夫とかかわりを持つようになったのは、これが最初であった。
ましたから、嘉助綱太夫とも申しまして、中々の名人でございました。此人の師匠は二代目政太夫でございます。二代目政太夫は通名を西口政太夫、また雑魚場政太夫とも申しまして、是亦名人でございましたさうです。また元祖綱太夫は、妹背山の新浄瑠璃が出来た節に、芝六住家と鱶七上使の二役を勤められた人でございま
る。寛政4年(1792年)11月大坂道頓堀東芝居『摂州合邦辻』「合邦内の段」にて大当たりをとり、「聞く子や妻は内と外、顔と顔とは隔たれど。心の隔て泣き寄りの。親身の誠ぞ哀れなる」―この母子の情を十分に訴える耳ざわりのよいフシは、今に至るまで猪熊風(二代目綱太夫風)として崩せないことになっている。また
も倶に出勤故此時竹本播磨太夫と名乗て勤らるゝ」は誤りであることがわかる。続く出座が同年8月道頓堀大西芝居のため、5月に江戸に下り、8月に大坂へ上るというスケジュールも考えられるが、『増補浄瑠璃大系図』は「同八年辛未五月目出度打上て帰坂致さる」とするため、こちらも矛盾が生じる。その8月の道頓堀大西芝居
して呉れまして、私は祖父の名を貰ひ、津太夫と為りました。 その年三國屋巴太夫に従いて桑名、名古屋、その他の地方へ初旅をしました。歸りましてから、大阪の文楽あたりへ出て修業が為たいと思うて居りましたけれども、父は私が二十五歳の時に亡くなりましたし、又その頃は好い太夫が多ございまして
出しまする後年迄捨らぬよふに語り置が上手也」 明和7年(1770年)には帰京し、扇谷和歌太夫座に出座。明和8年(1771年)久々に帰阪し、大坂 竹本座に出座した。安永元年(1772年)4月『躾方武士鑑』まで竹本座に出演していたが、同年9月道頓堀 豊竹和歌三座に太夫 豊竹島太夫
生りし後は少しづゝ心快き方に向ひ、粥の少し許りも食るやうになった処、遂に去二十五日(註:ママ)午後六時頃、享年四十四歳を一期として今度は真実に死ました。」という記事がある。筆致はふざけているが、六代目綱太夫の病状が新聞記事になるほど、東京での六代目綱太夫の存在感を示している。 全身に見事な彫り物
と紹介されている。若い時には「阿波の鳴門」なども得意とし、美声を存分に発揮して客席の涙を誘うので「鳴門太夫」と囃されたのも逸話になっている。 1955年「蔵前」「千本道行」「櫓(やぐら)お七」「狐火」など十数枚SPレコード(七十八回転)を録音。現在、金沢の 「蓄音機博物館」で所蔵されている。