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くにつな)は、平安時代後期の公卿。右馬権助・藤原盛国の子。官位は正二位・権大納言。五条大納言と号す。 藤原北家良門流の系統に属する下級官人だったが、文章生から蔵人になる一方で藤原忠通の家司として頭角を現わす。和泉・越後・伊予・播磨の受領を歴任して財力を蓄えるとともに成功により昇進し、永万元年(1165年)破格ともいえる蔵人頭に補される。
遷るが、同年10月に関白・藤原兼通が道綱の父である藤原兼家の右近衛大将を解いて治部卿に遷した際、道綱も土佐権守へ左遷される。翌貞元3年(978年)兼家が右大臣に任官され復権すると、まもなく道綱も左衛門佐に戻された。天元3年6年(983年)左近衛少将に遷任。
『尊卑分脈』 ^ 『定家朝臣記』 ^ 『尊卑分脈』 ^ a b c 『職事補任』 ^ 『大日本古記録 勘例』 ^ 『朝野群載』347頁 ^ 『摂津守有綱家歌合』 ^ 『二中歴』 ^ 『御産部類記』代々浴殿読書例 ^ 『為房卿記』 ^ 『師通記』 ^ 『尊卑分脈』藤原氏の項の記述による。 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
男子:藤原有佐(?-1131) - 後三条天皇の落胤 生母不詳の子女 女子:藤原長子(1079-?) - 讃岐典侍 ^ 『平安遺文』1083 ^ 『魚魯愚鈔』 ^ 『内裏歌合』 ^ 『大記』 ^ 『尊卑分脈』 ^ 『今鏡』137段による。 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年 宮崎康充編『国司補任
新古今和歌集:後鳥羽院親撰。定家は院の助手たちの中心だった。 新勅撰和歌集:定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。政治的な配慮で後鳥羽院、順徳院の歌が除かれている。 拾遺愚草 拾遺愚草員外 定家卿百番自歌合 定家卿独吟詩歌 秀歌大体:後堀河院に進献。
宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (『千載和歌集』冬419) 一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる
12月17日:左近衛大将 承平2年(932年) 8月4日:薨御。8月11日:贈従一位 父:藤原高藤 母:宮道列子 - 宮道弥益の娘 妻:藤原山蔭の娘 男子:藤原佳節 男子:藤原朝忠(910-967) 男子:藤原朝成(917-974) 男子:藤原朝頼 女子:代明親王室(?-936) 女子:藤原雅正室 - 藤原伊尹家の女房
任されるなど、天皇の外戚として引き続き急速に昇進した。 昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将を兼帯している。翌延喜2年(902年)大納言に至る。延喜4