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qaγan、呉音:しゃはちりゃくかがん、漢音:さはつりゃくかがん、拼音:Shābōlüè kĕhàn、? - 587年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の子。沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン:Ïšbara qaγan)というのは可汗号で、正しくは伊利倶盧設莫何始波羅可汗(いりくろせつ
」としてこれを固辞した。こうして何度も譲り合った末、結局処羅侯が葉護可汗として即位し、雍虞閭は葉護となった。葉護可汗は隋に遣使を送って朝貢し、隋から旗鼓を賜い、西の阿波可汗(アパ・カガン)を西征し、阿波可汗を生け捕った。その後、葉護可汗はまた征西した際(第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版))、流れ矢
毘咄陸可汗に拘束されていたので、乙毘射匱可汗はことごとく礼資をもって長安に送り帰し、ふたたび遣使を送って方物を貢納し、請婚した。太宗はこれを許可し、詔令で亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の五国を分割し、聘礼(結納品)とした。5月、太宗が崩御すると、阿史那賀魯が反乱を起こし、乙毘射匱可汗の部落はそれに併合された。
Kānā)の子である薄布特勤を迎えて、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。 貞観15年(641年)、唐の太宗は左領軍将軍の張大師に命じて乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。一方、この頃の西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って来た時に、お互い
貞観8年(634年)、咄陸可汗(トゥロク・カガン)が卒去すると、弟の同娥設(トンガ・シャド)が立って沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)に即位した。 貞観9年(635年)、沙鉢羅咥利失可汗は上表して唐に請婚し、馬500頭を献上した。朝廷はただ厚く加えて撫慰するだけで、その結婚を許さなかった。
は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、貞観14年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護、バガテュル・ヤブグ)を迎え、乙毘沙鉢羅葉護可汗(
し、支配下の国に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に葛邏禄(カルルク)種の多くがこれに離反した。そうした中、貞観2年(628年)、統葉護可汗は伯父(諸父)の莫賀咄(バガテュル)に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。太宗は統葉護可汗の死を聞き、甚だこれを追悼した。
護可汗はもともと自分の即位に協力してくれた泥孰を憚っていたが、密かに彼を排除しようと考えるようになり、それを事前に察知した泥孰は焉耆国に亡命した。こうしたことが積って、設卑達干(没卑達干)が咄陸(テュルク)・弩失畢二部の豪帥らと潜謀して肆葉護可汗を撃ち、肆葉護