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」としてこれを固辞した。こうして何度も譲り合った末、結局処羅侯が葉護可汗として即位し、雍虞閭は葉護となった。葉護可汗は隋に遣使を送って朝貢し、隋から旗鼓を賜い、西の阿波可汗(アパ・カガン)を西征し、阿波可汗を生け捕った。その後、葉護可汗はまた征西した際(第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版))、流れ矢
護可汗はもともと自分の即位に協力してくれた泥孰を憚っていたが、密かに彼を排除しようと考えるようになり、それを事前に察知した泥孰は焉耆国に亡命した。こうしたことが積って、設卑達干(没卑達干)が咄陸(テュルク)・弩失畢二部の豪帥らと潜謀して肆葉護可汗を撃ち、肆葉護
〔khaghan の音訳〕
木汗可汗(Muqan qaγan、漢音:ぼくかんかがん、拼音:Mùhàn kĕhàn、? - 572年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の弟。木汗可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は燕都という。俟斤(イルキン)というのは官職名で、名ではない。『隋書』では木杆可汗と表記。原音はムカン・カガン(mwx'nx'γ'n
乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。この頃西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って宮闕に詣でて来た時に、和睦するよう説得した。この時の乙毘咄陸可汗の兵衆は次第に強盛となっていったので、西域諸国はふたたびこれに帰服した。しばらくして、乙
『旧唐書』では「迴紇九姓可汗(ウイグル・トクズオグズ・カガン)」とある。 ^ 『新唐書』では「倶録莫賀達干」。 ^ 回紇軍が東京(洛陽)に来ると、彼らは賊が平定されたことを理由に、ほしいままに残忍な振る舞いをしたので、男女はこれを恐れて、みな洛陽の聖善寺と白馬寺の2閣へ登って避難した。回紇軍は火
迴紇公主を封じて毘伽(ビルゲ)公主とした。粛宗は彭原に在って、これを甚だ厚遇した。 至徳2載(757年)2月、葛勒可汗はまた首領および多覧葛の将軍ら15人に入朝させた。9月、粛宗は李承寀に開府儀同三司を加え、宗正卿に拝し、迴
車鼻可汗(呉音:しゃびかがん、漢音:しゃひかがん、拼音:Chēbí kĕhàn、生没年不詳)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。突厥別部の突利部出身。車鼻可汗というのは可汗号で、正しくは乙注車鼻可汗(いつちゅうしゃひかがん、Yǐzhùchēbí kĕhàn)といい、姓は阿史那氏、名は斛勃(こくほつ、Húbó)という。