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有田市の九十九王子は3社。 一壷王子から南西へ進み、道標や導き石を手がかりに、沓掛地区の民家の間を抜けて拝峠を登りきって丘陵上に出る。道標や万葉歌碑が路傍にある平坦な道を進み、下津湾を臨むところにあるのが蕪坂王子(かぶらざかおうじ、かぶらさかおうじ、または蕪坂塔下王子 ・蕪坂峠王子とも)の跡地である。『中右記』天
平緒王子(ひらおおおうじ)の跡地である。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「平緒王子」の名が見えるが、日前國懸宮への奉幣のために藤原定家自身は参詣せず、先達のみが奉幣を行ったとある。また、『頼資卿記』承元4年(1210年)4月24日条にも同様に、日前國懸宮への道から和佐・平緒
ここまでが大阪府、次からが和歌山県。 24. 中山王子 25. 山口王子 26. 川辺王子 27. 中村王子 28. 吐前(吐崎)王子 29. 川端王子 30. 和佐王子 31. 平緒王子 32. 奈久知王子 (以上、和歌山市。九十九王子 (和歌山市)参照。) 33. 松坂王子 34. 松代王子 35. 菩提房王子 36. 祓戸王子
王子(『紀伊続風土記』)・焼芝(やけしば)王子(『九十九王子記』、享保15年〈1730年〉)と呼ばれていた。 『中右記』には石内から塩屋までの道が日高川の増水で通行不能になったとあり、他にも『紀伊続風土記』に「此地河流変遷し岩内王子
海南市旦来1226-1 松代王子(まつしろおうじ)は、松坂王子から県道を南下して古道に入り、日方川沿いに進んで松代橋の傍らにある説明板と道標を手がかりに、山道に 200メートルほどわけ入ったところに緑泥片岩の石碑が建てられているあたりに比定される。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条、『民経記』
ぼり、山中渓駅の北側で阪和線の線路が山中川を越えた辺りの西側辺りに旧社地がある。ウハ目王子(後鳥羽院参詣記・建仁元年(1201年)10月8日条)・宇麻目王子(『民経記』)などの別称あり。 『東鳥取村誌』によれば 自然田から山中に通ずる道路側王子原に小祠があった。俗に山中の足神さんとして知られ、いつも大きな草鞋が社前に供えられていた。
祗史料』等の史料では、貝田社と加支田神社(泉佐野市鶴原)を同一視している。『泉佐野市史』には御幸記に鶴原王子の名で登場する旨の記述があるが、所在地の考定はない 所在地 泉佐野市貝田町 佐野王子(さのおうじ)は九十九王子の17番目。1908年(明治41年)、春日神社(泉佐野市春日町)に合祀され廃絶する
から 13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。 しかしながら、承久3年(1221年)の承久の乱以降、京からの熊野詣が下火になり、そのルートであった紀伊路が衰退するとともに、荒廃と退転がすすん