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〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
て新羅に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は対馬で病死、副使の大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、大判官・壬生宇太麻呂とともに麻呂が入京し、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた。
外従五位下・筑後介。 出自は不明で、雄津麻呂の名前のみ知られている。「賀禰」は『和名類聚抄』にある越後国魚沼郡賀禰郷によるという説もあるが、「賀弥」(かみ)の誤記ではないかとする説が有力である。 光仁朝の宝亀2年(771年)5月、正六位上から外従五位下に昇叙。9月、京官の大学員外助
弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。 その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟
大神 安麻呂(おおみわ の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。氏は大三輪とも記される。三輪文屋の孫で、三輪利金の子とする系図がある。官位は従四位上・兵部卿。 持統天皇3年(689年)竹田王・藤原史らと共に判事に任ぜられる(この時の冠位は務大肆)。
三位・大納言、贈従二位。佐保大納言と号す。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者を務める。文武朝では兄・御行の没後に大伴氏の氏上となり、大宝2年(702年)参議として公卿に列し、慶雲2年(705年)には大納言に至った。 天智朝にて、巨勢人の娘・郎女を娉った和歌が『万葉集』に採録されている。
人と共に大宝律令の撰定者となり、その功績によって白猪骨・土師甥らと共に禄を与えられた。この時は位階は田辺首名と同じ進大弐(大初位下に相当)である。 大麻呂の名前が登場するのは、この箇所のみであり、その後のことも分かってはいない。 父:不詳 母:不詳 生母不明の子女 男子:山口兄人 男子:山口人麻呂