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三位・大納言、贈従二位。佐保大納言と号す。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者を務める。文武朝では兄・御行の没後に大伴氏の氏上となり、大宝2年(702年)参議として公卿に列し、慶雲2年(705年)には大納言に至った。 天智朝にて、巨勢人の娘・郎女を娉った和歌が『万葉集』に採録されている。
〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
て新羅に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は対馬で病死、副使の大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、大判官・壬生宇太麻呂とともに麻呂が入京し、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた。
年(735年)になって6人は怠慢の罪により処罰されることとなり全員これを承服するが、聖武天皇の詔によりいずれも赦免されている。 その後右大弁を務める一方で、天平9年(737年)正五位上、天平10年(738年)従四位下と昇進する。同年12月に大宰大弐に任ぜられ、同時に大宰少弐となった藤原広嗣と共に大
安倍 寛麻呂(あべ の ひろまろ)は、平安時代初期の公卿。治部卿・安倍東人の三男。官位は従四位下・参議。 奈良時代中期の天平宝字元年(757年)に生まれるが、桓武朝末までの前半生の事績は不明で、40代後半の延暦22年(803年)になって中務少丞に任ぜられ、初めて歴史上に登場する。
が難しくなっていた秋田城の存廃に関連して、帰属して城下に居住していた俘囚が動揺している旨を上奏。これを受けて朝廷では秋田城の防衛強化が図られ、専使あるいは専当の国司による鎮守方式を採ることになり、これが後の秋田城介の起源になったとされている。 天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく上野守に任
弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。 その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟