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の歌(=高橋連虫麻呂歌集)の中に出ず」として載せている(巻6の1首目は笠金村の歌)。下総国真間(現在の千葉県市川市)の手児奈(てこな)の歌や、摂津国葦屋(現在の兵庫県芦屋市)の菟原処女(うないおとめ)の歌など、地方の伝説や人事を詠んだ歌が多い。虫麻呂が歌に詠んだ地域は、常陸国から駿河国にかけての東国と、摂津国・河内国・平城京などである。
高向 麻呂(たかむこ の まろ)は、飛鳥時代の公卿。名は摩呂とも書く。姓は臣のち朝臣。刑部尚書・高向国押の子。官位は従三位・摂津大夫。 天武天皇10年(681年)小錦下に叙せられる。天武天皇13年(684年)遣新羅大使となり、新羅に遣わされる。同年10月の八色の姓の制定により、臣から朝臣に改姓する。
〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
安倍 寛麻呂(あべ の ひろまろ)は、平安時代初期の公卿。治部卿・安倍東人の三男。官位は従四位下・参議。 奈良時代中期の天平宝字元年(757年)に生まれるが、桓武朝末までの前半生の事績は不明で、40代後半の延暦22年(803年)になって中務少丞に任ぜられ、初めて歴史上に登場する。
大神 安麻呂(おおみわ の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。氏は大三輪とも記される。三輪文屋の孫で、三輪利金の子とする系図がある。官位は従四位上・兵部卿。 持統天皇3年(689年)竹田王・藤原史らと共に判事に任ぜられる(この時の冠位は務大肆)。
が難しくなっていた秋田城の存廃に関連して、帰属して城下に居住していた俘囚が動揺している旨を上奏。これを受けて朝廷では秋田城の防衛強化が図られ、専使あるいは専当の国司による鎮守方式を採ることになり、これが後の秋田城介の起源になったとされている。 天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく上野守に任
三位・大納言、贈従二位。佐保大納言と号す。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者を務める。文武朝では兄・御行の没後に大伴氏の氏上となり、大宝2年(702年)参議として公卿に列し、慶雲2年(705年)には大納言に至った。 天智朝にて、巨勢人の娘・郎女を娉った和歌が『万葉集』に採録されている。