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要ともされている。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海道沖の地震の可能性があり、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、蘇州で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり、中国の江蘇省、浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安
とごとく掘れ一面の川成り。在処残らずにつき相助かる両町の者、相集い城主藤原朝臣下野守元信公同宍喰村城主藤原朝臣孫六郎殿御両殿諸寺諸社は申すに及ばず町家も残らず、それぞれ町並にして御取立下され候。 津波襲来時、城山(愛宕山)の大手門が閉じられていたため、城内へ入ることに難儀し死者が多く出たという(『震潮記』)。
辰刻地震。大坂では10月4日以来の大震、名古屋、伊勢、鳥取など広い範囲で強い地震。 宝永5年2月25日(1708年4月15日)、夜寅(4時)の刻地震頗る大也。名古屋、京都、大坂でもゆれる。 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。 宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。名古屋でも地鳴り。
『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される。木曾三川河口デルタの低地
これまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号(天治、大治、永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続「元」のつく元号(元応、元亨、元徳、元弘、延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である。 ちなみに、この時、候補として寛永、宝暦も提案されていた。 応永が35年間という長さになった原因には、以下の説がある。
「ない(地震)」の転。
〔「な」は土地, 「い」は居の意という〕
地球内部の特定部分に蓄積されたひずみが, ある限界に達し, 一時に解放されて弾性波(地震波)を生ずる現象。 および, それによって起こる地表の揺れ。