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書上げ申覚』には大泊村(現熊野市)にある観音堂の千手観音像について、「是れは応永の比右観音堂炎焼仕り其以後の再像にて御座候処去る亥の大地震に御手其他揺落し損傷仕り候得共・・」という記録が応永14年地震の項目に収録されているが、同一の史料が1707年宝永地震の項目にも収録されている。同書には「・・右縁
辰刻地震。大坂では10月4日以来の大震、名古屋、伊勢、鳥取など広い範囲で強い地震。 宝永5年2月25日(1708年4月15日)、夜寅(4時)の刻地震頗る大也。名古屋、京都、大坂でもゆれる。 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。 宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。名古屋でも地鳴り。
『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される。木曾三川河口デルタの低地
天正大地震(てんしょうおおじしん)、天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震(てんゆうじしん)とも呼ばれる。
ける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける
『吾妻鏡』には、大地震の様子が次のように記されている。 廿[にじゅう]三日乙巳[きのとみ]。晴。戌尅[いぬいのこく]に大いに地震う。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩し、人屋顛倒し、築地皆悉く破損す。所々地裂け、水涌き出で、中下馬橋[なかのげばばし]の辺は地裂け破れ、其の中より火炎燃え出ず。色青し云云 — 「吾妻鏡」
「ない(地震)」の転。
〔「な」は土地, 「い」は居の意という〕