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1892年-不明(囲碁奨励会の対局譜を掲載) 名人秀栄棋譜保存会『秀栄全集』大野万歳館 1911年(棋譜256局を収録、編集主任本因坊秀哉、1922年再版) 高川格『秀栄 日本囲碁大系(17)』筑摩書房 1976年 『本因坊秀栄全集』(全三巻)歴史図書社 1977年 高木祥一『流水秀栄 古典名局選集』日本棋院 1996年
荒木直躬『本因坊秀和全集 (全6巻)』誠文堂新光社 1956-60年 小堀啓爾『秀和 日本囲碁大系14』筑摩書房 1975年 福井正明『堅塁秀和』日本棋院 1995年 福井正明「秀和遺譜」(「圍碁」誌 1996年) 相場一宏、福井正明「碁界黄金の十九世紀(第17、22、26、29回)」(「碁ワールド」誌
その後、1910年には井上田淵因碩五段と十番碁、因碩先で9局目で秀哉が7勝2敗で先二に打ち込むなど、すべての棋士達を先二以下に打ち込んだ。また1910年『新案詰碁死活妙機』(吉川弘文館)を出版。1911年に八段昇段。1914年(大正3年)、41歳の時に名人に推挙され、名実ともに棋界第一人者になる。
御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時二段)との二子局を秀和に打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に二子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。た
門下、八段準名人、十八世本因坊。法名は日寿。 奔放な棋風で知られる。江戸幕府の庇護がなくなった明治期に囲碁結社方円社を主宰して囲碁界を支え、さらに西欧にまで広める端緒をつくった。著書に『方円新法』など。2007年に囲碁殿堂入り。秀甫の養子の村瀬彪は棋士にならず、第一銀行に勤務した。
野忠左衛門(井上節山因碩と同名だが別人)の子葛野秀悦として、養子として届けられたが、実質的には本因坊家で初めての実子相続となった。この年は御城碁は下打ちのみにとどまり中止となったため、出仕はせずに終わる。 1869年(明治2年)に中川亀三郎らによる六人会発足に参加、この時には既に六段に進んでいる。
向四子7目負 酒井石見守 1771年(明和8年) 向二子中押負 安井春哲仙角 1773年(安永2年) 白番中押勝 井上春達因碩 1774年(安永3年) 向二子6目負 本因坊烈元 1776年(安永5年) 向二子中押負 井上因達 1777年(安永6年) 向二子中押負 坂口仙徳 1778年(安永7年) 向六子4目負
1778年(安永7年) 先番中押勝 井上春達因碩 同年 先番17目勝 坂口仙徳 1779年(安永8年) 白番中押負 井上因達 1780年(安永9年) 白番3目勝 坂口仙徳 同年 白番3目負 林祐元門入 1781年(天明元年) 先番4目勝 坂口仙徳 1782年(天明2年) 白番1目勝 井上因達 同年 向二子中押負 安井仙角仙知