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禖子内親王(ばいし〈みわこ〉ないしんのう、長暦3年8月19日〈1039年9月10日〉 - 嘉保3年9月13日〈1096年10月1日〉)は、後朱雀天皇の第4皇女。母は中宮・藤原嫄子、同母姉に祐子内親王。後冷泉天皇朝賀茂斎院、号は六条斎院。 誕生後わずか10日で母后・嫄子が崩御し、姉・祐子内親王と共に祖
天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 遺詔によって、「宇多天皇」の追号に「後」の字を冠した後宇多院の追号が贈られた。宇多天皇もまた、真言宗に傾倒し、阿闍梨(師僧)の資格を得た天皇だった。 なお、日本史研究者の河内祥輔によれば、子の後醍醐天皇が自身の追号を「後醍醐」としたのは、後宇多
宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日〈貞観9年5月5日〉- 931年9月3日〈承平元年7月19日〉)は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)。 諱は定省(さだみ)。 後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である(詳細は皇子女の欄参照)。
祐子内親王(ゆうし(すけこ)ないしんのう、長暦2年4月21日(1038年5月27日) - 長治2年11月7日(1105年12月15日))は、後朱雀天皇第3皇女、母は中宮・藤原嫄子(敦康親王女で藤原頼通養女)。別名高倉一宮あるいは高倉殿宮(高倉宮)。同母妹に禖子内親王。藤原師通を養子とした。
- 永久2年8月20日〈1114年9月20日〉)は、第69代後朱雀天皇の第5皇女。母は女御・藤原延子(藤原頼宗の娘)。後冷泉、後三条両朝の賀茂斎院。押小路斎院、また土御門斎院とも号した。 後朱雀天皇の崩御から3ヶ月後に誕生。天喜6年(1058年)6月27日、異母姉・禖子内親王の後をう
幼少時は祖母・七条院殖子のもとで養育されたらしく、『業資王記』に七条院で「姫宮」の戴餅や御魚味祝を行った記録が見られる。斎院退下後は『明月記』によると四条壬生の御所にあり、後堀河天皇がしばしば行幸したことが知られ、また母方の坊門家の行事にも七条院らと共に臨幸していた。その後承久の乱で父・後鳥羽院
子や輔仁親王と行動した様子が伝えられることから、彼らの後見役を担っていたとも考えられる。 [脚注の使い方] ^ 中村 (2006), p.28 ^ 槙 (1993), p.72 ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus ^ 木本 (2012), p.41 ^ 中村 (2006), p.30 “聡子内親王(そうしないしんのう)とは”
久子内親王(きゅうしないしんのう/ひさこないしんのう、文永9年(1272年) - 貞和2年4月25日(1346年5月16日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後深草天皇の第四皇女。母は玄輝門院(洞院愔子)。伏見天皇・性仁法親王の同母妹。女院とされ永陽門院と号する。