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祐子内親王(ゆうし(すけこ)ないしんのう、長暦2年4月21日(1038年5月27日) - 長治2年11月7日(1105年12月15日))は、後朱雀天皇第3皇女、母は中宮・藤原嫄子(敦康親王女で藤原頼通養女)。別名高倉一宮あるいは高倉殿宮(高倉宮)。同母妹に禖子内親王。藤原師通を養子とした。
禖子内親王(ばいし〈みわこ〉ないしんのう、長暦3年8月19日〈1039年9月10日〉 - 嘉保3年9月13日〈1096年10月1日〉)は、後朱雀天皇の第4皇女。母は中宮・藤原嫄子、同母姉に祐子内親王。後冷泉天皇朝賀茂斎院、号は六条斎院。 誕生後わずか10日で母后・嫄子が崩御し、姉・祐子内親王と共に祖
1046年) 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 ^ 『後朱雀天皇』 - コトバンク 『摂関期古記録データベース』国際日本文化研究センター(『後朱雀天皇御記』の読み下し文を公開)
は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御
享年からの逆算である。一方貞観10年12月22日条には太皇太后(正子内親王)の60歳の算賀が行われたと記されており、ここから逆算すると大同4年(809年)生まれとなる。崩御記事の享年が誤りなのか、何らかの事情で算賀が本来の予定よりも繰り上げられて行われたものなのかを判断する史料は現時点では存在しない
禖子内親王(ばいしないしんのう、生没年不詳)は、後宇多天皇の第二皇女。母は鎌倉幕府将軍・宗尊親王の王女・揄子女王。女院号は崇明門院(すうめいもんいん)。 元応元年(1319年)10月28日内親王宣下を受けたのち、後二条天皇の嫡男で自身の甥にあたる東宮邦良親王の妃となった。一説には禖子は自身の叔母で
幼少時は祖母・七条院殖子のもとで養育されたらしく、『業資王記』に七条院で「姫宮」の戴餅や御魚味祝を行った記録が見られる。斎院退下後は『明月記』によると四条壬生の御所にあり、後堀河天皇がしばしば行幸したことが知られ、また母方の坊門家の行事にも七条院らと共に臨幸していた。その後承久の乱で父・後鳥羽院
子や輔仁親王と行動した様子が伝えられることから、彼らの後見役を担っていたとも考えられる。 [脚注の使い方] ^ 中村 (2006), p.28 ^ 槙 (1993), p.72 ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus ^ 木本 (2012), p.41 ^ 中村 (2006), p.30 “聡子内親王(そうしないしんのう)とは”