Ngôn ngữ
Không có dữ liệu
Thông báo
Không có thông báo mới
また、同年から正平24年/応安2年(1369年)にかけて、領内の寺院に向けて西園寺大納言某の発給した国宣・御教書が数通伝存しているが、この人物も公俊に比定されるだろう。しかも、文書様式と「正平」元号の使用から鑑みて、公俊は南朝方の知行国主に相違なく、その出自も同じく南朝に属した公重の遺児と見なすのが自然である。北朝方の嫡流実俊に
西園寺家は実宗以来、しばしば琵琶の御師を務めて歴代天皇に秘曲を伝授していたことが、『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』や『文机談』に見えている。弘安9年(1286年)6月16日には実兼が当時春宮であった煕仁親王(後の伏見天皇)に楊真操の秘曲伝授をおこない、同月22日には献譜したことが後深草院御記にあ
寛喜4年(1232年)正月9日:後宮別当 貞永元年(1232年)10月4日:止傅 24日:辭大将 文暦元年(1234年)10月6日:後宮別当 嘉禄元年(1235年)10月2日:右大臣 嘉禄2年(1236年)3月4日:従一位 嘉禄2年(1236年)4月18日:辭 寛元2年(1244年):復 寛元4年(1246年)3月4日:太政大臣
応長元年(1311年)6月9日、正二位に昇叙。 正和4年(1315年)3月13日、中納言に転正。9月25日、父・公衡の喪に服す。11月25日、復任。 正和5年(1316年)9月12日、権大納言に任ぜられる。 元応元年(1319年)8月7日、中宮大夫を兼ねる。 元亨2年(1322年)8月11日、大納言に転正。同年9月10日、祖父・実兼の喪に服す。
娘(也須姫もしくは安姫)が京に戻って鷹司家から婿(西園寺実輔)を取り西園寺家を継いだ。 父:西園寺公益 母:不詳 妻:徳姫 - 侍従・細川忠隆の女 男子:西園寺公満(1622-1651) 男子:西園寺公宣(1625-1670) 妻:家女房 男子:西園寺公遂(1663-1678) ^ 『綿考輯録』より
永禄8年(1565年) 日付不詳:出家 父:西園寺公家 母:不詳 妻:不詳 男子:西園寺公高(1538-1556) 女子:勧修寺基賢室 女子:明石寺尊栄室 女子:土居清晴室 女子:吉田充次室 女子:西姫 - 西園寺公広正室 養子 男子:西園寺公広(1537-1588) - 西園寺公宣の子 ^
西園寺 実益(さいおんじ さねます)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。左大臣・西園寺公朝の子。官位は従一位・右大臣。 永禄4年(1561年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、元亀3年(1572年)に従三位となり公卿に列する。その後も権中納言・権大納言を経て、天正8年(1
ったが、永正17年(1520年)には伊予国へ下向した。戦国時代に地方に下向した他の公卿と同じく経済的理由であると思われる。 天文元年(1532年)に帰洛し、その翌年から再度朝廷に出仕した。天文4年(1535年)に内大臣、天文6年(1537年)左大臣となり、天文9年(1540年)まで務めた。この間に左