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大中臣 親隆(おおなかとみ の ちかたか)は、平安時代後期の公卿・伊勢神宮祭主。神祇権大副・大中臣親仲の三男。官位は正三位・神祇大副、伊勢神宮祭主。 保延2年(1136年)神祇少祐に任ぜられる。保延5年(1139年)従五位下に叙され、永治2年(1142年)神祇権大祐に転じる。
長和5年(1016年)後一条天皇の大嘗祭で正四位下と祭主の労により叙位を受けている。 寛仁3年(1019年)ごろ神祇伯に任ぜられ、長元7年(1034年)には18年ぶりの昇叙により従三位に叙せられ、公卿に列した。長元9年(1036年)後朱雀天皇の大嘗祭における祭主の労により正三位に至る。 長
漢詩人として『懐風藻』に漢詩作品2首が採録されている。また、草壁皇子のために粟原寺の建立を発願するなど、仏教にも理解を示した。 談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文からは大嶋の夫人である「比売朝臣額田」(ひめのあそみぬかだ)が80歳近くまで生きたことがわかる。「比売」という氏族は他に現われないので
つかさどった貴族である。 中臣鎌足が藤原姓を賜った後、その子藤原不比等が幼かったため、鎌足の甥で婿養子とも言われる中臣意美麻呂が暫定的に藤原氏を継いだ。後に、成長した不比等に正式に文武天皇の勅が下り、改めて藤原姓は鎌足の嫡男・不比等とその子孫のみとし、他の者は中臣氏に復するよう
(1)国務大臣のこと。
「だいじん(大臣){(2)}」に同じ。
大和朝廷における国政の最高官の一。 臣(オミ)を姓(カバネ)とする豪族の最有力者で, 大連(オオムラジ)とともに国政に参画。 葛城(カツラギ)・平群(ヘグリ)・巨勢(コセ)・蘇我(ソガ)の諸氏が任ぜられたが, 六世紀半ば以後は蘇我氏が独占した。 大化の改新後廃止され, 代わって左右大臣が置かれた。 おおみ。 おおまえつぎみ。