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錣山(しころやま)は、日本相撲協会の年寄名跡のひとつ。初代・錣山が四股名として名乗っていたもので、その由来は定かではない。江戸相撲会所の筆分という重役職は永らく歴代の錣山が務めていた。現在は、2023年12月に死去した20代錣山の福薗好文の遺族が名跡を所有している。 代目の太字は、部屋持ち親方。
屋根と同じような外観となる。 錣(しころ)とは、兜や頭巾などの下部に布や縅などを垂らし後頭部を保護する覆いのことで、建築では板に段をつけて並べたもの「羽板(はいた)、鎧板(よろいいた)」のことを「錣板(しころいた)」ともいう。これを応用し、庇の屋根板を羽板の要領で葺いたものを「錣庇(しころびさし)」という。
楯山部屋(たてやまべや)は、かつて存在した相撲部屋。 3代仮名頭次平が天保年間に幕内三楯山藤太夫を育てた。 5代大槙幸治は大関若嶌久三郎を育てるが途中で死去。若嶌は明治15年(1882年)6月より二枚鑑札で部屋を継承した。引退後に楯甲久四郎の入幕が決まった直後の明治24年(1891年)1月に死去。楯甲らは粂川部屋へ移籍した。
襲名して1940年(昭和15年)に高砂部屋から分家独立して大山部屋を創設した。1945年(昭和20年)の東京大空襲では、部屋、妻、長女、新弟子をいっぺんに亡くしてしまった。その後、10代大山は1955年(昭和30年)に直弟子・松登を大関に昇進させ、ついに1961年(昭和36年)12月に念願の土俵付
を、中川部屋からの三熊山を幕内力士に育て上げた。しかし、新十両入りを決めた信濃川が徴兵先から帰還しないうちに、1945年(昭和20年)に5代鏡山が身罷ると鏡山部屋は閉鎖され、所属力士は伊勢ヶ濱部屋(旧・伊勢ヶ濱部屋)へ移籍した。信濃川も戦後に帰還してからは伊勢ヶ濱部屋に所属した。
山科部屋(やましなべや)は、かつて存在した相撲部屋。 3代稲荷山長兵衛、6代がそれぞれ部屋を経営したが関取はでていない。 秀ノ山部屋の元幕内達ヶ関森右エ門は明治12年(1879年)5月に引退して7代を襲名。しかし、関取を出すことができずに明治42年(1909年)3月に死去。所属力士は出羽ノ海部屋へ移
^ 尾車部屋へ移籍ののち独立、朝日山部屋を再興した。 ^ この結果株が譲渡されなかった琴錦は2016年1月6日に年寄・朝日山を取得・襲名するまで、合計6つの年寄株を借株で襲名することになり、現役引退してから株を取得するまでに準年寄時代の2年間も含めて15年4か月かかってしまった。 ^
山を襲名し部屋付きの親方であった駒ノ里が継承した。その後竹旺山友久が幕内まで育ったが、昭和24年(1949年)1月に廃業。駒ノ里は5月に部屋を閉じ、出羽海部屋に所属した。そういういきさつがあるので、系統別総当たり制の時期には、山分部屋の力士は、出羽海・春日野部屋の力士とは対戦しなかった。 表示 編集