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りて居城を築きしは此の地方が彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか。こはもとより一片の想像に過ぎざるも、上に述べしが如く白山部の靺鞨が高麗の滅亡と共に唐に入れりとせられ、而して唐はかかる夷民を営州に置くが慣例なりしより見れば
靺鞨、払涅靺鞨、号室靺鞨、白山靺鞨、黒水靺鞨の七部族に分けている。 『魏書』勿吉伝は、「勿吉國,在高句麗北,舊肅慎國也。邑落各自有長,不相總一。其人勁悍,於東夷最強。言語獨異。」 と記している。金毓黻が著した『渤海国志長編(中国語版)』は、太白山の北に居住する靺鞨諸族の七部族の相互位置関係を明かにし、各部族が200里から300
粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)は、中国の隋唐時代に外満洲(現在のロシア沿海州)に存在した農耕漁労民族である靺鞨七部のうちの一部である。 渤海国建国者の大祚栄は高句麗に附いていた粟末靺鞨であり、高句麗が滅ぶと、家族を率いて営州に移り住んだ。 万歳通天元年(696年)、契丹首領の李尽忠、孫万栄が反乱を起こ
払涅靺鞨(ふつでつまっかつ)は、現在の中国黒竜江省南部からロシア連邦沿海州南部に住んでいた靺鞨七部の一分派である。7世紀から8世紀前半に突厥に支配されたが、741年以降渤海の支配に入った。 靺鞨七部のうち最も未開であり、隋朝初期に石鍬を用いていた。 ^ a b 井上秀雄『東アジア民族史
安車骨靺鞨(あんしゃこつまっかつ)は、6世紀後半から中国東北部の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族である靺鞨の一派。渤海の北進に対抗して鉄利部を中心に統合されたので鉄利部ともいい、かつての勿吉の中心部族である。