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弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。 その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟
三位・大納言、贈従二位。佐保大納言と号す。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者を務める。文武朝では兄・御行の没後に大伴氏の氏上となり、大宝2年(702年)参議として公卿に列し、慶雲2年(705年)には大納言に至った。 天智朝にて、巨勢人の娘・郎女を娉った和歌が『万葉集』に採録されている。
(775年)9月に参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正四位上・勲三等に叙せられ、贈賻として絁30疋と布100端が与えられた。 宝亀7年(776年)7月7日卒去。最終官位は参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍。即日従三位の贈位を受けた。
〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕
※一※ (代)
て新羅に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は対馬で病死、副使の大伴三中は疫病に感染して入京できなかったため、大判官・壬生宇太麻呂とともに麻呂が入京し、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの礼儀を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。これに基づいて官人45名が内裏に召集され、対策のための意見の陳述が行われた。
加わり、養老6年(722年)にはその功労として矢集虫麻呂とともに5町の功田を与えられている。 矢集虫麻呂とともに神亀年間(724年 - 729年)の宿儒と称され、神亀3年(726年)の太政官符には「令師匠正七位下」と記されている。 聖武朝の天平11年(739年)外従五位下に昇叙され、時期は不明ながら
大神 安麻呂(おおみわ の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。氏は大三輪とも記される。三輪文屋の孫で、三輪利金の子とする系図がある。官位は従四位上・兵部卿。 持統天皇3年(689年)竹田王・藤原史らと共に判事に任ぜられる(この時の冠位は務大肆)。